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第11回_株式会社かろのうろん―挑戦し続ける起業家たち―屏風は、広げすぎると倒れる。144年の暖簾を守る四代目が、それでも麺を変えた理由。

「屏風と同じで、広げすぎると倒れるから」
父から受け継いだ言葉を、瓜生高康さんは静かに口にした。
店を増やすな、手を広げるな——博多っ子なら誰もが知る老舗の四代目に託されたのは、成長の号令ではなく、その真逆の戒めだった。
明治15年創業、144年。福岡に現存する最古のうどん店。
守るべきものを守り抜くその一方で、彼は博多うどんの常識だった「茹で置き」を、自らの手で捨てている。
株式会社かろのうろん 代表取締役 四代目店主・瓜生高康さんのインタビューをお届けする。
株式会社かろのうろん
代表取締役・四代目店主 瓜生 高康 氏
1968年(昭和43年)、福岡市博多区上川端生まれ。
明治15年(1882年)に初代・瓜生イソが創業した、福岡に現存する最古のうどん店「かろのうろん」の四代目。中国・蘭州での修業を経てこの道36年。
羅臼昆布・いりこ・かつお節の出汁と前日に手打ちして一晩寝かせるやわらかな麺を守り続ける。2019年に法人化。弟・喜政氏、妻とともに店を切り盛りする。
カエルが4匹、出てきた日から
店は川端商店街のすぐそば、櫛田神社にほど近い角にある。
屋号はもともと無かった。
角にあるうどん屋——「かどのうどん」が、生粋の博多弁で「だ行」が「ら行」に訛り、いつしか「かろのうろん」と呼ばれるようになった。
客がそう呼ぶのだから、と、それをそのまま屋号にした。
看板に描かれているのは、カエルだ。
「初代のイソが店を建てるとき、土を掘ったらカエルが4匹出てきたそうで。おばあちゃんが、これをトレードマークにしようって」
その光景を、高康さんは見ていない。
祖父も祖母も、物心つく頃には亡くなっていた。
それでも、カエルの話は語り継がれ、看板の中で今も生きている。
かつて一度、ハワイから訪れた日系の家族がいた。
「ひいひいおじいちゃんが、ここで食べたんだよ。」
第一次世界大戦より前、1910年代のことだという。
その頃はまだ「かどのうどん」だった。144年という歳月は、そういう長さだ。

五百円札と、母の後ろ姿
継ぐ気は、まるでなかった。
父も母も朝から晩まで働きづめ。夕食はいつも夜九時を回った。
「忙しくて、きつそうやから」——子どもの目に映る家業は、憧れの対象ではなかった。
それでも、手伝えば父が岩倉具視の五百円札をくれた。
常連客も「お前、偉いね」と小銭を握らせてくれた。
「あら、こんなことしてお金もらえるのかな。」
子どもながらに、そんな感触だけは残っていた。
転機は、中学生の終わり頃に訪れる。父が倒れたのだ。
「父もね、辛いから酒とタバコがどんどん増えて、肝臓を悪くして、血を吐いたんですよ。入院して休んでいる間、母が一人でずっとやっていて。その後ろ姿を見て、これはやらないかんな、と」
体の小さな母が、たった一人で店を回していた。
その背中が、進路を決めた。
怒らなかった父、褒めた父
父は、二代目の両親を早くに亡くし、大学進学を目前にして急遽この店を継いだ人だった。
高校を出たてで暖簾を背負い、四十年、五十年と立ち続けた。苦労は絶えなかったはずだ。
その父が、息子には決して怒らなかった。
高康さんは若い頃、うどんに唐辛子を混ぜたり、昆布を練り込んだりと、あれこれ試作を繰り返した。
父はそれを見て「すごいじゃないか。やるじゃないか」と褒めた。
寝坊すれば水をかけられたが、挑戦だけは、いつも肯定された。
ある日、どうしても美味しくできない試作があった。
自分が食べても、誰が食べても、これはダメだ、という代物。
ところが父は、それを長年の得意客に出した。
「これ美味しいでしょ、息子が作ったんですよ、って。……ここまでやられたら、もう、やるしかないでしょう」
覚悟が決まった瞬間だった。
「もし自分が父の立場だったら、まだできない。人間として全然ダメだなと思う」——今もそう語る。
空港の出店を、断った
父から受け継いだ教えは、たった一つ。
「あまり広げすぎないようにしなさい。屏風と同じで、広げすぎると倒れるから。」
店を増やすな、規模を追うな。
144年、この店はずっと、この角の一軒だけだ。
出店の誘いは何度もあった。新しくできる空港からも声がかかった。
博多らしい老舗として、これ以上の看板はない。収益は確実に上がる。
それでも、断った。
「お断りしたんです。父がそう言っていましたから」
拡大こそ正義とされる時代に、あえて広げない。
これが、144年続いた理由の一つなのだろう。
それでも、麺を変えた

守るばかりの人ではない。四代目は、博多うどんの象徴を自らの手で変えている。
かつてこの店は、せっかちな博多っ子のために、茹で置きの麺を出していた。
それを高康さんは、茹でたてに切り替えた。理由は、実にあっさりしている。
「茹でたての方が、おいしいからですね。これでやってみようと思って」
だが道のりは平坦ではなかった。周囲は反対し、最初は失敗ばかり。
茹で置き用の生地は塩水の濃度を高めに仕込むが、その加減には限界がある。
湿度によって同じ粉でもまるで変わる。
「塩と水と粉だけなんですよ。シンプルやから、難しい。考えるほど、沼にはまっていくんです」
目指すのは、出汁と麺と具の「三位一体」。
新しく挑戦しては、また父のやり方に戻してみる。
すると、そこにフィードバックが返ってくる。そしてまた、少し良い味が生まれる。
「同じところを、ずっとぐるぐる回っているような感じですけどね」
回りながら、確実に上がっていく螺旋。
それが、老舗の進化のかたちだった。
羅臼昆布という、譲れない一線
変えないものもある。
出汁は、北海道・羅臼の昆布で取る。これだけは信念だ。
しかも一等品だけでは使わない。
一等だけだと「上品すぎる」から、二等・三等を合わせ、庶民の舌に馴染むコクを出す。
その配合こそが、変わらぬ味の正体だ。
しかし今、その羅臼昆布が危うい。
作り手は減り、浜には熊が出る。
温暖化で海そのものが変わり、昆布が育たなくなってきているという。
価格は昭和の頃の倍だ。
「父は、昆布が取れんくなったら砂糖でも混ぜろと言っていましたけど、そんなわけにはいかない。だから今は、一気にズバッと買っているんです」
値上げにも限度がある。それでも、この一線だけは譲らない。
辞めなかった人には、すごさがある

四代にわたって続いた店。だが本人は「今が一番大変」と笑う。
コロナ禍で借りた資金の返済が続き、加えて母の入院、介護。
仕事の忙しさとは別のところで、日々は容赦なく回る。
それでも、支えがある。
二階の座敷を任せられる弟。
段取りが誰よりも早く、七、八人のアルバイトをまとめてくれる妻。
そして、長年通い続ける常連客たちだ。
継続の秘訣を尋ねると、答えは意外なほど内面的なものだった。
「失敗した時が、一番大事でしょう。落ち込んでやめるか、次に繋げるか。切り替えるしかないんですよ」
「私は、空を見るんです。空を見て、自分ちっちゃいなと思って、次の日また頑張ろうって。これって、お金かからないでしょう(笑)」
酒でもパチンコでもなく、空を見上げる。
144年を背負う男のあまりに簡素な処方箋だ。
そして、続けることの意味を氏はこう表現した。
「辞めなかった人には、それなりのすごさがありますよね」
店の継続に最も必要なものは何か、と問うと、迷わず「人」と答えた。
常連さん、家族、地域の人たち。
「それが一番じゃないかな。」
東京でIT企業に勤める息子には、寝ている時を狙って「お前、うどん屋になるぞ。ちゃんと継ぐぞ」と語りかけているという。
冗談めかしながらも作り方を書き残す準備は、もう始めている。
最後に、家業を継ぐ立場にある人へのメッセージを尋ねた。
「そういう気持ちがあるなら、続けていってやってほしいですね。心が折れそうな時も、あるでしょうけど」
あとがき

2019年、かろのうろんは株式会社になった。
税理士先生の勧めで法人化を決め、久保山司法書士事務所を経て、インプレス福岡に法人設立印一式のご依頼をいただいた。
明治から続く暖簾に、初めて「株式会社」の印が加わった瞬間だった。
取材のお願いに電話を差し上げたとき、応対されたのは奥様だった。
「お手紙を差し上げた者です」と名乗ると、すぐに話が通じた。
忙しい時間帯にもかかわらず、店の中で情報がきちんと共有されている。
144年という時間は、こうした日々の積み重ねの上にあるのだと感じた。
屏風は広げすぎると倒れる。
けれど、閉じたままでは何も映さない。
四代目は、広げずに深めることを選んだ。
麺を変え、出汁を守り、失敗のたびに空を見上げてきた。
私たちの印鑑も、1本1本彫刻文字を作り、手作業で仕上げる。
効率だけを考えれば、他にやり方はある。
それでも変えないものがあるから、変える勇気も持てるのだと思う。
守るものを持つ者同士として、次の百年にも、そっと寄り添っていきたい。

明治15年創業、博多っ子に愛され続ける老舗うろん店
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